
ときどき思います。人間は何のために生きているのだろうか、と。
おそらく、「幸せ」という言葉は、人間が生きることの目的と関連しているのではないかと思います。
私が思う幸せとは、いわゆる「快楽」とは違います。快楽は、何らかの欲望が満たされたときに、脳が興奮する物質を分泌した時に感じるもので、所詮は化学的な説明が可能なもの。ブレインケミカルが織りなす現象にすぎません。同じ刺激を受けても「慣れ」が発生してしまい、同じような興奮を得ることができなくなります。
私が思うに、幸せとはもっと個人の自由意志に基づいていて、自分で行動して得るものだと思います。行動といっても、それは単に体を動かすことではなく、魂、心、体による一大プロジェクトで、幸せとなる「何か」を求め、見つけることです。
私が生まれた昭和と比べて、令和の暮らしは便利になり、自由になりました。これまでできなかったことが可能になった時、例えば生まれて初めてスマホを使った時、EVに乗り始めた時、ChatGPTを使った時、年収が上がり、生活レベルが上がった時、それは興奮しました。でもそれはあくまでPleasureであって、Happinessではありません。だから人間はもっといいものが欲しくなります。その瞬間はうれしくても、残念ながらうつ病と診断される人、自ら命を絶ってしまう人はいなくなっていません。
結局のところ、幸せは、自分で努力して設定するものではないかと思います。設定すれば、幸せの元素はどこにでも存在します。
例えば家族を持ち、子供の父親という立場となり、責任を自覚し、子供の成長を見守るようになったとき、それを幸せと感じるようになりました。子供の寝息そばで聞いた時のことです。
人生において子供の親という季節、それは一瞬の出来事かもしれません。でもその瞬間を永遠と感じられる自分が確かにいます。
責任があるということは、義務を負うという事です。これは一見自由と相反しています。でもそれは自分が自ら選んだ義務であり、自由意思による何もない自由への制限です。逆説的ですが、自由な社会の中で、自分の意志で選択して自らの自由に制限をかけ、進んで義務を受け入れている。そして、それを幸せと感じている。
自分が幸せかどうかは、自分で決めるものです。どんな境遇にあっても、自分が不幸だと思えば、そうなってしまいます。逆に、自分が世界一番の幸せ者だと信じるならば、誰もそれに反論することはできません。
必ずしもお金や名声などではない。私は、これで人生はこの時点で成功したと確信しました。そしてここから先は、贅沢なさらなる幸せの追求だと思っています。
そしてそれは、自分の無限に続く成長です。経験と感動。人生の中でいろいろなことを学び、感じることです。
これまでに、概ね世界中を回り、世界中の人と出会い、世界中のおいしいものを食べました。まだまだ出会っていない食べ物もあるけど、残りはネット情報もあるし、だいたい想像できます。初めてなにかを見た時の感動は、もうそれほど多くないと思います。でも、これから見たいものはそんなものじゃない。もっとたくさんの人に出会い、いろんな感情や思想に触れたい。そしてより多くの人の心をポジティブにし、自分自身をもっともっと成長させたい。
生意気なことを言うようですが、ミッドライフを迎え、今はそんな気分です。笑ってやってください。